海をみにいく
海に行った。小さい頃によく言った、遊泳禁止の岩場だ。今は水位が上がってしまってあの頃のようには中洲のような場所に居れない。
ゴーグルなども忘れてしまって、潜ることも出来なかったけれど、それでも水の底の魚を触ったり、ひなた水を脚に受けたり、ぼうっと水に自分を沈めたりした。
磯のなかはおもしろいものでいっぱいだ。貝がら、いそぎんちゃく、張り付いてる魚、浮かぶ海藻。そのどれもがひとつひとつ違って、いちいち胸をいっぱいにして、波が引くように去っていく。
そんな中で石ころを偶然手に取った。水の中で、ひたすら波の中にとどまりながら。2つの石ころで、ひとつは大きく、ひとつは小さい。
なにか親密なものを感じてわかった。これは私の大人の魂と、わたしが未だに持っている赤ん坊の魂だと。そう思ったらしばらく動けなかった。海のとほうもないやさしさとあたたかさ。
許されるということは、自分を許すことを許すということ。
全てを海に濡らされることの心地よさ。
しばらく考えて、私は私のふたつの魂を、もとの水底に戻した。
このあたたかい海に許されたままであるように。
R. Strauss Rosenkavalier 3.Akt Terzett
Wenn ich sentimental werde, läuft in meinem Kopf letzter Zeit oft das stück von Rosenkavalier. Die schöne Musik, diese Intimität, so schön dass man fast traurig wird, Wärme, Sehnsucht.
Wärme.
Sehnsucht.
Intimität.
Was mir momentan alles fehlt.
クレバスは突然に
気持ちのクレバスは突然にやってくる。
気が付くとすっぽりとのまれている。わたしは身動きも取れず、暗いかなしいそこに、ただ、耐える。
涙があふれる。ある日の義母の声が聞こえる。
『あんたのところへ子供たちをやるなら、養子に出した方がマシだ』
ひとしきり泣いて 、思う。確かにわたしの仕事は夜勤ありの週末なしだ。でもそのなかで今まで子供たちのご飯、仕事の合間の子供つれての遊び場 、朝夕の保育園のバス乗継での送り迎え、買い物、洗濯、やったのはわたしなのに。あなたの息子は、家賃や生活費どころかオムツも買わないのに。赤ちゃんを叩いたのに。
おかしい。こんな戯れ言、ずーっと言わせない。
脅しに負けない。必ず、守ってみせる
人間の苦しみは
ほとんどいつも愛と、何かを失う悲しみに関係している。(これはもしかすると昔どこかで読んだかもわからない)
だから喜びも悲しみもすべて引きくるめて
人生の現実を私たちがみとめ、経験し、そのおもさに耐久することができれば人生のおもさにたえることができることになる。
しかしここで自分自身を騙したり嘘をついたりしてその重みをかわそうとしてしまうと(依存などもそこにふくまれる、もちろん依存というのはそれはそれで生き延びる術なのだけど)、傷からの治癒が遅れるばかりか、もっとも大きな苦しみの源になってしまう。
自分が知ることを知り、感じているものを感じること。
つまり、自分の基本的欲求というのは、人の基本的欲求というものは、あたりまえだが私たちを支えているのだ。高尚な思想は得てして私たちを治癒へと導かない。
なみだ
胸がいっぱいになるとなみだがでる。なみだがでるまではあたかも普通の顔をしている。でも突然それは津波みたいやってきて、私はのまれてしまう。なみだの気持ちに。
だから私は音楽をやっているんだろう。音楽が好きだからというより、ほかにわたしのあふれる気持ちを受け止めてくれ、内側から外側へと運河のようにおし流してくれるものは私には他にない。生き延びるすべなのだ。私の心のなみだが、私のなかを満たしに満たして、私を殺してしまわないように。